ひとひらの愛

独断と偏見とポエム

君が一番疲れた顔が見たい

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生まれて初めて、付き合っている、と言っちゃいけない人と付き合っている。べつに恋愛の話がすごく好きなわけじゃないけど、人と話をすること自体がとても好きなわたしにとって、これは当初想定以上にややこしい縛りプレイで、自分の思考や行動を相互に関連づけて現在地を語るスタイルに慣れすぎているせいで、彼――仮にKとしよう――のこと抜きに、今の自分の思考や行動を語るのはほとんど不可能に近い。

たとえば友達や仲の良い同僚と、最近はだいぶ暖かいからテラスのあるお店ばかり選ぶんだけど、ビールを飲みながら仕事の話をしようと思っても、恋愛の話をしようと思っても、映画の話をしようと思っても、本の話をしようと思っても、Kの話はそのすべての裏にぴたっと張り付いていて、切り離すことができない。誰にも背中を見せずに街を歩くことができないみたいに、Kのことを抜きに何の話もできないのに、しちゃいけないから、わたしにしてはキレのないストーリーだなぁと内心で相手に申し訳なく思いながら人と話すようになって、早くも半年経つ。できすぎた偶然の連続で築いた関係性だし、今この瞬間も夢ではないかと疑っているし、相手のメリットがわからない点を除けば詐欺だと言われても驚かない。でもとにかく半年経ったから、記念に書いておきたいのだ。誰にも言えないKの話を。 

 

そもそもの出会いのきっかけは少女漫画のように突飛なので、ここでは割愛する。とにかくそのときのわたしとKは、「お互いの顔と名前は知っているけど二度と会うことはないとお互い思っている」状態だった。去年の、11月にしては暖かい夜、仕事の試写会で観た映画がびっくりするほど期待外れで、上司と苦笑しながら日比谷の試写室を出た。飲みながら感想戦をしたい気分だったけど、上司はすぐ近くに勤める奥さんと合流して帰宅するとのことで、月曜20時の繁華街に一人放り出されたわたしは完全に手持ち無沙汰だった。あの映画が満足のいく名作だったら、あるいは上司の奥様が残業で出られずそのまま飲みに行っていたら、いまKと付き合っていることもないのだと思うと、何が人生を変えるかなんてわからない。不完全燃焼のまま日比谷線に乗った瞬間、六本木で口直しの映画を観て帰ろうと思いつく。スマホからその場で検索したらフィンランド映画祭の真っ最中で、何で忘れてたんだろう!と思う。

フィンランドはわたしにとって特別な国だ。学部の卒論はアキ・カウリスマキで書いたし、新卒から文字通り心身を削るようにして働いた会社をきっかり5年で辞めたあと、逃げるように留学して5か月だけ住んでいたこともある。ヘルシンキのゆったりした生活ムードやそこでできた友達との交流にはいい思い出しかなく、世界で一番好きで住みたい街だけど、それはわたしにとってまったくリアルじゃなくて、ただ貯金を食い潰している間だけ見ることができる夢のようなモラトリアムにすぎない。自分の能力とガッツが足りないから。ヘルシンキの思い出は常にそんな劣等感とセットで、大好きだけど語りにくいという心の中のめんどくさい場所にしまわれている。最近、元同期の一人が部長になったらしいと聞いたときも、真っ先に脳裏に浮かんだのは5年通ったタワービル内の執務室ではなく、ヘルシンキの夏の夕方の公園のベンチの光の感じだったのだから重症だ。

その夜観たのは、パン屋で働く真面目な妹と、ダンサーをしながら男の人に頼って生計を立てる奔放な姉のロードムービー。妹がいるせいでもともと姉妹ものには極端に弱いことに加えて、なりたい自分との乖離に苦しんでもがく主人公たちの姿が自分と重なって、フィンランドの寒々しい冬の風景と重なって、どうしようもないくらい泣いた。声を上げないようにハンカチで口元を塞いでも、目から無音で涙だけぼたぼたと垂れる。エンドロールが始まった瞬間、暗い内にとすぐ席を立った。真ん中辺りに座っていたけど座席はガラガラだったので、通路沿いにいた一人にだけ会釈して通してもらって、ロビーに出た。思いっきり鼻をかんで、上映前に買った冷めたコーヒーの残りを飲んで、鞄に入れてたペットボトルの水も飲んで、ようやく人心地ついてはーーーーーっと深い息を吐いたとき、何人かがぱらぱらと劇場から出てきた。開いた扉から音楽が漏れる。その中にいたのが、というか同じ列に座っていた通路沿いの人がKだったんだけど、そのときのわたしは映画のことで頭がいっぱいで、いい映画を観た後は必ずそうなるようにのぼせてボーッとしていたので、まったく気付かなかった。彼がその場にいたことにも、泣き顔に気付いて見られていたことにも。

 

これは後から聞いた話だが、Kはわたしのことをストーカーかと疑っていた時期があったらしい。わたしにとっての「久しぶりの再会」はその翌月、今度は平日昼間の渋谷の映画館で、それこそカウリスマキの新作を観た帰りのエレベーター内だったのだが、その2週間ほど前にも、深夜に六本木の書店でわたしは彼に目撃されている。「びっくりして、咄嗟に少しだけ」後をつけたと言うのだからどっちがストーカーだかわからないが、わたしが「買ったばかりの書店の紙袋を揺らしながら、ヘッドフォンをつけてフラフラとリズムを取るように歩きスマホをしながら、口笛を吹いてた」ので、吹き出しそうになったらしい。そのときの曲はツイートしたのでよく覚えている、佐藤伸治本人カヴァーの「それはただの気分さ」。仕事柄、映画館で知り合いに会うのはさして珍しいことではないが、まさかKに会うなんて思ってもみなくて、目礼だけしてエレベーター内で気まずく黙り込むと、「フィンランド映画が好きなんですか?」と聞いてきたのは彼の方だった。「はい、昔ちょっと住んでて」思わず口走ったのはその目があまりに真剣だったからで、いままで生きてきてこんなに目力の強い人に会ったことない、と思ったら負けず嫌い心がわいたのだ。気圧されて言ってしまったというよりはマウンティングに近い気持ちだった。理由はわからないけど、心情はよく覚えてる。そのときのわたしはKに対して、優位性を示したかったのだ。大きい上に潤んだ目がもう一回り大きくなって、「ちょっとこの後時間ありますか?」と聞かれた。何が起こったかわからなかった。彼にとって4度目の偶然だったその日、こちらからしてみれば会ってまだ2度目だったのだから。

Kは華やかな仕事をしている。自分の名前と身体と、あと才能とをフルに使って勝負するような、「表方」の仕事。わたしは好きな街に住む自由すら持てないことに劣等感を抱えるださい会社員で、経験や能力といったらわずか数か月いたヘルシンキ、やっと数年になった映画業界、それからちょっと文章が書けることくらいで、だけどKも映画にはかなり詳しい上に、プロとして文筆業までこなしているのである。意味が分からない。神様は人に二物三物は与えなくても、四物や五物は与えるのだ。そして、彼はどうやらこれからフィンランドのことを書こうとしているらしかった。

取材に行きたいけどなかなか予定が空かないこと、映画祭に通う中で劇場で泣くわたしを見かけたことなどを聞かされて、最初は何かの悪ふざけかと思ったが、目の前の人は実際にちょっと困っていた。綺麗な顔をして頭が良くて優秀で、メジャーな人気とマイナーな趣味を両立していて、何となくいけ好かないやつ、というのが第一印象だったけど、そんな相手に教えられることがあるのは気持ちよく、露悪的な気分になるのは嫌いじゃなかった。こうしたたくさんの偶然と、わたしの性格の悪さから、わたしたちは連絡先を交換したのだ。

 

メールは2日間の間に3通くることもあれば、3週間くらい間が空くこともあった。書き物に関しての質問とその回答がほとんどだったけど、挨拶代わりに仕事の忙しさや体調、最近観た映画や読んだ本について送ることもあった。やがて敬語も省くようになった文章でやりとりしてる限りの彼はそこまで浮世離れした存在ではなく、ふつうに同世代の趣味の合う男の子という感じで、実際会ったときよりも身近に感じるという逆転現象が起こった。メールがくれば嬉しかったし、来ないのを待っている間も好きだった。何か印象的な出来事があると「次のメールに書こう」と思うようになったし、Kのことを考えていたらメディアで彼を見掛けてどきりとしたりもした。3か月余りの間に、30往復はやりとりしたと思う。そして、お互い触れなかったけど何気なく話に出てくる行動範囲から、家が近所なんだろうなとの予感がしていた。

ずっと取り組んできた原稿がやっと初稿のゲラまでできたということで、せっかくなら会おうよ、と言い出したのはKの方だった。早すぎる桜を大雨がさらって、全部を道路上に散らした頃だった。待ち合わせした日は朝から気が気じゃなくて、仕事中も上の空でやり過ごした。時間より早く指定されたお店に着いたが、先に着いていたKは真顔で分厚いゲラの束と向き合っていた。わざと無言でそーっと向かいに座ると、目線を上げてちょっと笑ってからペンを置き、紙束をとんとんと揃えると両手で差し出す。自信に満ちてすっきりした顔。その瞬間、ああもう自分はこの人のことがすでにめちゃくちゃ好きなんだとわかってしまって、地獄に突き落とされたような気持ちになる。「大恋愛」と呼びたいような恋の経験はある。年齢なりの虚勢やハッタリも駆使してここまで生きてきた。けど、いくら何でもこの人は手に余りすぎる。真夏のヘルシンキの海辺の光みたいに、人生の一時期のご褒美として受け取ることはあっても、やがて貯金が底をついて、遠からず離れることになるだろう。恋い焦がれた分だけわたしは自分のことが嫌いになるだろう。気が遠くなりそうになるのをどうにか留めてゲラを受け取って、冒頭から読み始める。フィンランドの場面は全体の1/6くらいの、本当に短い回想パートだったけど、文章の間に間から光や雑踏のざわめきが立ち上るような、それは冴えた描写だった。「すごい、すごいいい」とぼそっとつぶやくと、Kもはーっとため息をついて、「なら良かった、」とだけ言った。最後まで読み終わると、いい映画を観た後は必ずそうなるようにのぼせて、わたしはゲラの上にそのまま突っ伏してしまう。

 

そこには、誰にも話したことのないわたし自身の気持ちが書いてあった。もちろんKとのメールにも明かしていない、自分の中の劣等感とちっぽけなプライドを、主人公がそのまま体現している。たしかにわたしはヘルシンキの地理的なことや生活習慣について、そこで出会った人々について、印象的だった会話について、彼に開陳した。見栄っ張りなわたしはそれを、適度に瑞々しくてリアリティがあって、物語に向くように手元で加工して送ったつもりでいたのに。こわかった。綺麗な顔をして頭が良くて優秀で、メジャーな人気とマイナーな趣味を両立していて。映画に詳しくて文章も上手い、自分といくつも違わない男の子が。それでも、ここまでの洞察と表現を身につけるのに、一体どれだけの努力を払ってきたのだろう? 「ふつうに同世代の趣味の合う男の子」? 「身近に感じる」? わたしはとんでもないくらいバカだった。劣等感と嫉妬で爆発しそうだった。

突っ伏したまま、「腹立つわ~~~~~~」と声に出して言ってみる。「えええ?」と笑って返されるが、一度声に出すともう気持ちがあふれて止まらない。「すごい嫉妬する、分不相応にごめんね」と上げた顔にどうにか薄笑いを浮かべると、今後は向こうが真顔になった。「一つ言っておくけど、」と前置きされて、あのときもこの人はこんな目をしていたなと思う。ユーロスペースのエレベーター。「別におれだって、原稿見てもらうだけでわざわざ会おうって言ったりしないからね」。拗ねたような言い方だった。沈黙。11月からこっち、心に留まっていたいろいろな場面がフラッシュバックする。薄暗いクラブで踊る姉妹、ホームステイしていたヘルシンキの部屋、出世した元同期、フィッシュマンズ。何か気の利いたことを言おうとしてすぐに諦める。「とりあえず、飲み物、頼んでいい?」と聞くのが精一杯だった。

その夜は二人ともよく飲んだ。適度に酔っぱらって、メールに書いたことも話したし、それ以外のことも話した(ストーカー疑惑とか)。お酒も相まって信じられないくらい楽しくて、帰りに外苑西通りを歩きながら「それはただの気分さ」を歌った。それから今までずっと、長い夢を見ているみたいだ。

 

付き合うようになってから知ったのは、わたしの予想していた以上にKが多忙であるということ。ほとんど忙殺されていると言っていい。それも何か月も続けて。わたしはわたしで同年代の平均よりは遥かに仕事が忙しくて、残業も休日出勤も多いけど、もちろん彼には敵わない。劣等感も嫉妬も水位を下げることはなく、Kの活躍を嬉しく思う反面胸のあたりがむかむかしてくるのは、忙しいせいで会えないからというより、単に圧倒的に上を行かれているのが悔しいからだ。たまに「時間ができた」と家にやってきても、ご飯を作っている間に爆睡していたり、逆にわたしが家に遊びに行っても、急な仕事が入ってずっとPCに向かったりしている。でもそれも楽しい。

偶然だけど、わたしからKへの気持ちをフィッシュマンズはかなり的確に歌っている。「君が一番疲れた顔が見たい」。それからこう続くのだ、「誰にも会いたくない顔のそばにいたい」と。世界から求められて、身体ごと投げだすようにして自分の才能を使いこんでいる彼を見ていると、反動で自分も何か思い切ったことがしたくなって、フィンランドに飛ぶ航空券を取った。少し早めの夏休みとして、休暇を取って映画祭を見るのだ、と告げたらKは心底羨ましそうな顔をしたので、それだけでも満足している。最愛の人との今生の別れのようにして日本に戻ってきたけど、会いたくなったらまた何度でも、自分から会いに行けばいいのだ。5年ぶりのヘルシンキを自分がどう感じるのか、今から楽しみにしている。