ひとひらの愛

独断と偏見とポエム

中村安未果は最高の女 ―もしくは、加藤シゲアキと冷蔵庫の女

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「この作家の書く女には、母親と恋人の二種類しかいない」という批判の仕方があるのを知ったとき、その対象が誰だったのかはもう忘れた。大学の映画論の講義だったか、文学論の講義だったか。存命の日本の男性作家だったとは思う。

あれから15年近く経ったけれど、日本の(いや、世界の……?)男性作家を取り巻く状況は、そんなに変わっていないように思える。いかに第三国の、英語圏外の、マイノリティの、女性作家による「世界文学」がノーベル文学賞レースの本選として加熱していこうとも。書店に入って平台に並ぶ作品たちを手に取れば、男性作家の物した小説の中の女性のうち、はたして何割が同性から見ても魅力的だろう。そのうち何分が、「母親的な包容力」と「恋人的な魅力」の両方から自由だろう?

 

 

本論を一つの仮説から始めたい。すなわち、「加藤シゲアキの書く女には、包容力のある母親的な女と、けして結ばれることのないファム・ファタルとしての恋人の、二種類しかいない」と。

たとえば、デビュー作『ピンクとグレー』においては幼馴染みの石川紗理と日本を代表する歌姫の香凜が、『傘を持たない蟻たちは』所収の短編「染色」では(同じ姓を持つ!)女子大生の橋本杏奈美大生の橋本美優が、最新長編『チュベローズで待ってる』においてはホステスのミサキと会社員の斉藤美津子が、いかにも対比的に描かれる。

前者は主人公ら男たちの鬱屈に寄り添い、甲斐甲斐しく世話をし、何人かは実際に妊娠して母親になる。他方クールな恋人たちはというと、その魅力でもって危うい均衡の上に成り立っていた男の世界にひびを入れ、爪痕を残し、そしてたいていはどこか遠くへ――何人かは死によって二度と会えない彼岸へ――と去っていってしまうのだ。 

中には『ピンクとグレー』における主人公の親友の姉・唯や、『閃光スクランブル』の妻・ユウアのように、予め喪われている(ことで男たちの葛藤の元凶となる)登場人物も多い。男性主人公の物語を補強するアイテムとして女性キャラクタの死が利用される、いわゆる「冷蔵庫の女」の一類型と言えるだろう。(それも亡くなるのがダンサーやモデルといった属性の、スリムな美女ばかりとあっては、作品そのものの出来はさておき「はは、」と乾いた笑いがもれてしまうのも正直なところだ。)

 

 

発売されたばかりのユリイカ総特集「日本の男性アイドル」 には、「ワイルドサイドを歩け――加藤シゲアキ論」と題された小論が掲載されている。著者は批評家の矢野利裕。芸能界がその成り立ちから否応なく孕む周縁性と、芸能人がそのまま自身を商品として自認せざるを得ないプロレタリアート性とに着目し、「アイドル・加藤シゲアキ」と「小説家・加藤シゲアキ」がいかに不可分であるかを語る要旨に異論はない。

しかし、ここには重大な見落としがある。それは、「シゲの小説」にはマイノリティへのあたたかい共感と同時に、(言葉の最悪な意味で)「伝統的」で「文学的」な男性作家の傲慢さもまた満ち満ちているという点だ。

ホスト/障碍者/ホームレス……といった、(矢野論でいうところの)「周縁的な人々」への優しい眼差しと、女を「世話してくれる母親/死んでしまう(ことで永遠に手に入らない、同時に誰の物にもならない)恋人」へと無意識に二分する冷徹さ。この奇妙な――あるいは、「巧妙な」と言い換えてもいい――同居こそが、加藤文学のコアではないだろうか?

 

ファンなら誰もが知っていることだが、加藤シゲアキという作家のインプット量には目を見張るものがある。ラジオやインタビューから拾い聞き/拾い読む限りでも、小説も映画も音楽も、スタンダードな名作から話題の最新作まで、隈なく摂取し意欲的に自身の創作へ反映させているように見える。文化的教養の厚い作家なのだ。残念なことにそれは、「母親的な包容力か/恋人的な魅力かの二択から自由になれない女性キャラ」をも、含んだ文化なのだが。

同誌に掲載されている千葉雅也「戦後日本のかっこかわいさを讃えて――ジャニ系と時代」が見事に看破しているように、「ジャニーズは、男をまなざしの地獄に巻き込んだ」中心的役割を果たした事務所だ。「見られる性」の領域にいち早く参入した男性としてのジャニーズ。

その「河原の男芸者」という特異な立ち位置をもってしても、彼の中に蓄積された「女を一方的に客体化して見つめる、ヘテロ男性的権力」の教養は突破できないという事実に、いち女性読者としては落胆するほかない。
(もちろん、これを単に「1987年生まれの、高学歴でリベラルな男の子」が当然持ち合わせる「シティズンシップ」と「性癖」とのダブルスタンダードだと断定することもできる。が、それは些か意地悪がすぎるだろう。)

 

 

ひとつ希望があるとすれば、彼の書く小説の中には女性主人公の語りによる作品もけして少なくなく、そこで描かれる女性像は、男性主人公のものに比べればよほど生き生きと、人間らしい色彩を帯びていることだろう。

わたしがとりわけ偏愛しているのは、『傘を持たない蟻たちは』所収「インターセプト」のヒロイン・中村安未果。加藤作品の中でも飛び抜けて聡明で、執念深く、男の感傷のために殺されるどころか、笑顔で男を殺して冷蔵庫に詰めてそうな女だ。ドラマ版では足立梨花が演じている点も含め、比類なき最高の女。中村安未果に出会ったとき、初めて加藤作品の中で大好きになれる女性に会った喜びでいっぱいになった。

インターセプト」はまた、「見る性」として女を一方的に品評し、ホモソーシャル集団での優越感を得るためだけに口説き落とそうとする男が、逆に「まなざしの地獄」へと滑り落ちる瞬間を、技巧的に描き出した容赦ない作品でもある。

加藤シゲアキほどのリテラシーを持つ作家が、昨今のフェミニズムへの関心の高まりに気付いていないとは言わせない。彼が自作の持つ男性的権力を自覚する日もそう遠くないと信じたい。そのときはじめて、「ジャニーズで、小説家」であることの真価は発揮されるだろう。わたしたちはまだ、「まなざしの地獄にいる男性作家」の、本当のすごさを知らない。

 

 

ユリイカ 2019年11月臨時増刊号 総特集=日本の男性アイドル 

傘を持たない蟻たちは(角川文庫)

 

 

お題「加藤シゲアキ論」

ユリイカ発売の情報を見て、皆「加藤シゲアキ論」をたくさん書きたく/読みたくなるんじゃないかと、先回りして作ったお題です。加藤担さん、他担さん、小説家としての加藤シゲアキしか知らない人……問わず、皆さんの加藤さん論が読みたい!と思っていますので、気軽にポストしてください。